相場展望~小野田少尉逝く

相場展望~小野田少尉逝く

平成26年1月30日号(相場展望~小野田少尉逝く)

GHQによって大東亜戦争は太平洋戦争の呼称に変更されました。大東亜共栄圏を作るという聖戦を侵略戦争に貶められました。大東亜共栄圏は、アジアの欧米植民地から独立させる、日本・満州・支那・フィリピン・ベトナム・ラオス・カンボジアにまで及ぶ広大な共益圏でした。日本の敗戦の後も、東南アジアの国々が次々と独立できたのは、残地諜者といって、日本に帰国せずに、そのまま現地に残り任務の遂行にあたった旧日本兵の存在があればこそでした。オランダから独立したインドネシアには英雄墓地がありますが、独立戦争を手助けした32人の日本兵の墓が一番良い所にあります。侵略戦争だなどいう戯言を言うのは、中国と韓国だけで、他のアジアの国々からは今も多大な感謝をされています。マハティールが演説した『日本なかりせば』に総意があります。

フィリピンのルバング島で残地諜者として1974年まで戦後29年間も戦い続けた小野田寛郎少尉が2/17に亡くなられました。上官の横山中将から、『玉砕は一切まかりならぬ、3年でも、5年でも頑張れ、必ず迎えに行く』と言う命令を忠実に守り、帰国の時も、直属の上官、谷口少佐からの任務解除命令が出て、初めて同意した程です。30年間継続した戦闘においては、アメリカ軍のレーダー基地の襲撃を繰り返し、フィリピン警察・米兵など30人以上を殺傷したのに拘わらず、軍人の鑑として、恩赦されました。

日本の将校・参謀・スパイ養成機関である中野学校出身者で、教官からは誰も信用するな、ただ自分の判断だけを信用しろと教えられました。盗んだトランジスターラジオを改造し、短波受信機にし、様々な情報は得ていましたが、終戦・投降を呼びかけるアナウンスは敵の謀略放送と思い。朝鮮戦争に向かう、米軍機を見ると、満州に日本が作ったと考えられる亡命政権の反撃が開始され、ベトナム戦争に向かう、米軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じました。30年間は毎日が危機の連続であり、危機は乗り切れば良いと考えました。

最後の2年近くは戦友を射殺され、一人で暮らしました。『魚は水の中でしか生きられず、人は人の中でしか生きられない』と述懐しました。私が一番好きな小野田さんの名言は『過去は捨てる事はできない。現在は止める事ができない。しかし、未来は決める事ができる。』というものです。私たちに選択できる事は未来を決める事なのです。

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